1.伝統と革新
日本における近代公園の整備は、1873年 に発せられた太政官布達により始まりまし た。居留地における横浜の山手公園(1870 年)や神戸の東遊園地(1875年)等は、欧米 の文化を導入したものですが、「古来の勝区 名人の旧跡等是迄群集遊観の場所」を「永く 万人偕楽の地」とし、公園としていくこと は、この太政官布達が嚆矢となります。こ の背景には、1871年から1873年にかけて派 遣された岩倉使節団による欧米の視察が大 きな影響を与えていたと考えられます。写真 1は、岩倉使節団がニューヨーク市長から献本を 受けたセントラル パークの年次報告 書ですが、当時、ま だ公園という用語 がなかったことか ら「中央遊歩場」と 記載されています。 1885年から審議 が開始された東京 市区改正設計審査 会では、この使節 団に同行し、日本に「衛生」という新しい概 念を創り出した初代内務省衛生局長の長與 專齋が次のように論陣を張っています。
1885年から審議 が開始された東京 市区改正設計審査 会では、この使節 団に同行し、日本に「衛生」という新しい概 念を創り出した初代内務省衛生局長の長與 專齋が次のように論陣を張っています。
「人口稠密の都府に園林及び空地を要す るは、(略)衛生上より論ずれば、街区相 連り(略)、開豁清潔の場所あるに非ざれ ば、住民日常の生活、産業より生ずる大気 の汚敗を更新するの路なく、有害の悪気 市区に沈滞して病夭の煤を為し其浄除揮 散を求むるも得可からず。是家に庭なく、 室に窓ゆうなきに同じく、亦身体に肺臓を 欠くに異ならざるなり」(明治18年4月21日 東京市区改正品海築港審査議事筆記)
こうして、日本橋坂本伝染病病院を移転 し、坂本町公園(1889年)が誕生し、その14 年後に日比谷公園(1903年)が創り出されま した。
2.近代都市計画とパークシステム
大正期にはいり、日本における近代ラン ドスケープの形成において、一時期を画す る大事業が展開されることとなりました。明 治神宮内外苑と、これを結ぶ連絡道路の整 備です(図1)。これは、当初、明治50年に開 催を予定していた日本大博覧会の計画地で したが、明治天皇の崩御に伴い、明治神宮 内外苑を整備することが、1913年2月27日、 貴族院議長・徳川家達より、時の内閣総理 大臣・桂太郎に建議され、実現に移された ものです。
明治神宮の造営は、「森厳荘重」を旨とす る「内苑」と、「公衆の優遊」を旨とする「外 苑」を、前者は国費をもって、後者は献費に より行うことが決定されました。
「外苑」は、明治神宮奉賛会が組織され全 国及び海外からの献金と献木により、1926 年10月に竣工をみました。国民からの献金 の総額は7,033,640円(予定:4,500,000円)、 献木は54種3,190本、内外苑造営に奉仕した 青年団は、延べ102,792人にのぼったと記録 されています(『明治神宮内苑誌』1930年、 『明治神宮外苑志』1937年)。「外苑」は造営 後、明治神宮に奉献され、その美観を永久 に保存することが明治神宮奉賛会より要請 されました。1926年9月14日には、東京都市 計画・明治神宮風致地区が、日本における 最初の風致地区として指定されました(内 務省告示134号:内苑・外苑・北参道・表参 道・西参道・神宮外苑青山口・内苑外苑連 絡道路沿線)。この風致地区は、度重なる変 更がありながらも基本的骨格は世紀を超えて約100年継承されている「珠玉の歴史的資 産」です。
今回の再開発の対象区域は、現在の風致 地区地域区分におけるA地域、B地域に指定 されています。A地域は、「風致地区の核と して位置づけられ、優良な風致を特に保全 すべき地域」であり、絵画館前から芝生広場 を経ていちょう並木までが指定されていま す。B地域は、「核としての地域をとりまく 等風致地区の美観、雰囲気を守る役割を果 たすべき地域」で、絵画館、神宮球場、第二 球場の地域が指定されています。
外苑の計画と整備は、奉賛会より神宮造 営局に委託され、委員として古市公威、伊 東忠太、佐野利器等、造園系としては川瀬 善太郎、本多静六、原熈が任命され、外苑 計画綱領及び工事概算書が決定されまし た。実務に当たった中心人物が、原熈門下 の折下吉延(写真2)で、1915年に明治神宮 造営局技師に任じられています。
折下は、宮内省内苑寮技師として新宿御 苑に奉職後、奈良女子高等師範学校の教授 でしたが、外苑造成の大役を拝命したもの で、当時35歳の新進気鋭の技術者であった と記載されています。それでは、外苑計画 の考え方は、どのようなものであったか、 『明治神宮外苑志』をひも解きながら、考え ていきたいと思います。
3.近代都市美運動と外苑整備
『明治神宮外苑志』には、「庭園編」として 計画の考え方が、以下のように書かれてい ます。
「神宮内苑の霊域は(略)、清雅幽邃なる神苑林泉相参差映発し、森厳にして荘重な るをもってその基調とせり。外苑の庭園 に至りては之に異なり、一たび内苑を離 れて足外苑に入れば、明朗にして快濶、 優雅哨悠(略)、現代庭園なり」
図2、3は、同書におさめられている外苑 計画図ですが、大きく異なっていることが わかります。図2は、運動施設は競技場のみ で芝生広場を取り囲み、小丘を築き、池泉 が樹林地内を縫うように描かれています。 青山口からのいちょう並木は、図2では2列 ですが、図3(次頁)では4列となっています。 この設計変更は、野球場・相撲場・水泳場 の整備という社会的要請と、近代都市美運動の影響の2つの要因があったと考えられ ます。
外苑整備中の1919年、折下は、欧米視察 を拝命し、同年5月に横浜出帆、米国、イギ リス、フランス、イタリア、オランダ、ドイ…
